Page 1 of 28

『リベラルアーツ&マイノリティ』vol.2

Liberal Arts & Minority, vol.2

89

ろう児の言語獲得環境における日本の現状と課題

–ロールモデルとしてのろうメンターの重要性–

守屋 敬介

要旨

本論文では、ろう児が言語剥奪の危機に直面している問題に着目し、言語剥奪の生じる要因と

その弊害について論じた。言語剥奪を防ぐためには乳幼児期からの言語獲得が重要であること、

ろう児の言語獲得に大きく関わるろうメンターが重要であることについて論じた。その上で、日

本におけるろう児の言語獲得に関する現状と課題について、手話言語条例、人工内耳、乳幼児教

育相談の視点でまとめた。さらに、例は少ないが現在、地域での手話の言語獲得支援を行ってい

る団体の活動をとりあげ、日本におけるろうメンターの導入の可能性を検討し今後の課題を述べ

た。

キーワード:ろう児、聴覚障害、手話、言語獲得、ロールモデル

序論

世界では言語剥奪の危機に直面しているろう児が多くいる。ろう児においては言語剥奪が

起こりやすいことが明らかになっており、その原因はさまざまな要因から生じている。言語

剥奪がもたらす影響はおおきく言語の獲得のみではなく言語と密接に絡み合うあらゆる面に

影響を与える。ろう児において言語剥奪を防ぐためには乳幼児期からの手話での言語の獲得

が重要であり、それを可能にする当事者としてのろうメンターの存在が欠かせない。

本論文では、ろう児が言語剥奪の危機に直面している問題に着目し、ろう児の言語獲得に

大きく関わるろうメンターの重要性について論じる。その上で、日本におけるろう児の言語

獲得に関する現状と課題について、手話言語条例、人工内耳、乳幼児教育相談の視点でまと

める。さらに、例は少ないが現在、地域での手話の言語獲得支援を行っている団体の活動を

とりあげ、日本におけるろうメンターの導入の可能性を検討し今後の課題を述べる。

1. 言語剥奪

1-1言語剥奪とは

ろうメンターが重要な背景には、多くのろう児が言語剥奪の状態におかれてしまいがちだ

という問題がある。ほとんどの子どもは、言語入力が豊富な世界に生まれ、深刻な神経認知

障害がない限り、これらの子どもたちは、およそ 5 歳までに母国語を獲得し、その他の発達

のほぼすべての領域において、言語能力に依存することになる1。言語の獲得には臨界期と

いうものが存在し、生後から5歳までが言語獲得の臨界期であり、それ以後に言語の獲得を

Page 2 of 28

『リベラルアーツ&マイノリティ』vol.2

Liberal Arts & Minority, vol.2

90

開始しても流暢な第一言語を獲得することが困難であると言われている2。Murray et al.は、

この言語獲得の重要な時期に、何かに妨げられることなく自然言語にアクセスできない状況

を「言語剥奪(Language Deprivation)」と呼ぶと述べる3。こうした言語剥奪は、聴児におい

ては起こる可能性は低いが、ろう児においては起こりやすく深刻な問題となっている。

1-2ろう児と言語剥奪

ろう児の多くが言語剥奪の危機に瀕しているのが現状である。Murray et al.によると世界

的に言語剥奪の危機に瀕しているろう児の割合が高いことが明らかになっている4。こうした

言語剥奪の状況は、聴児においては一般的ではないが、ろう児においては起こりやすく、深

刻な問題となっている。聴児であれば、生まれた時から自然に言語にアクセスでき獲得でき

る環境にある。しかしながら、ろう児たちはそうではない。

ろう児が言語剥奪の状況におかれる理由の一つとして、ろう児を持つ親は聴者が多いこと

が挙げられる。実際にろう児の 90 パーセントは聴者の親から生まれることが明らかになっ

ており5、ろう児を持つ聴者の親はろう児を授かった際に手話ができないことがほとんどで

ある。ろう児にとって、子どもの知覚能力と家族の言語環境の不一致は容易にアクセスでき

る言語入力の欠如につながることが多い6。言語剥奪は、聴児のケースでは重度の発達病理

や犯罪的な虐待・ネグレクト以外ではめったに見られないほど珍しい現象であるが、ろう

児・者の間では非常によく見られるのである7。そのため、ろう児が生後から5歳までの言

語獲得の重要な時期に、言語にアクセスできる環境が重要である。

ろう児が言語剥奪の状況におかれるもう一つの理由に、医師などの専門家が手話ではなく

音声言語を習得できるように聴覚技術を推奨することが多いという点があげられる。乳児が

ろう・難聴であると診断された場合、専門家は音声言語を習得できるようにデジタル補聴器

や人工内耳などの聴覚技術を推奨することがよくある8。しかしながら、これらの技術では

聴覚情報を十分に得られるようにはならないことが、言語獲得前のろう児に影響を与えてし

まう9。その結果、出生直後や言語獲得の重要な時期に完全な言語のアクセスが提供されな

い状況になる10。専門家が聴覚技術を推奨する背景には、いろいろな事情があると考えられ

る。病院などの専門家の多くは障害そのものを治療して治そうとする医学モデルに基づく価

値観により、少しでも聞こえるようにすることが正しいと考えており、手話の必要性は重視

されていないことが考えられる。Murray et al.は、”There is frequently ideological resistance

to the use, and lack of understanding, of signed languages among medical and education

professionals who promote spoken language-only approaches, and the use of cochlear

implants.”(音声言語のみのアプローチや人工内耳の使用を推進する医療および教育の専門家

の間では、手話の使用に対するイデオロギー的な抵抗や、手話に対する理解の欠如が頻繁に

見られる)と指摘する11。多くのろう児を持つ親が初期にろう児に関する情報を得る機会は病

院・医師からである。新生児聴覚スクリーニングから早期介入に移行するのが一般的であ

り、新生児聴覚スクリーニングには、聴覚訓練士(audiologists)、ソーシャルワーカー、医療

Page 3 of 28

『リベラルアーツ&マイノリティ』vol.2

Liberal Arts & Minority, vol.2

91

専門家などの早期介入サービスが通常関与している12。しかし、ろう児に関する情報を親に

教えることができる専門家ろう者は、通常、このプロセスに関与しないのである13。日本に

おいては新生児聴覚検査後、言語聴覚士、耳鼻科、小児科の医療専門家やろう学校の教育機

関を中心とする多方面領域からの支援チームを構成している状況がみられる14。しかし社会

福祉的な手続き(例えば補聴器などの交付、手話通訳など)を担うソーシャルワーカーはこの

ような支援チームに含まれていない15。

成人ろう者が早期介入システムに介入しない理由について Gale et al.は”A reason why deaf

adults do not have diverse roles in early intervention systems could be that professionals are

not aware of the positive impact deaf adults can have throughout the system.”(成人ろう者が

早期介入システムにおいて多様な役割を担っていない理由としては、システム全体に与える

プラスの影響を専門家が認識していないためであろう)と指摘する16。ろう児に対する医療お

よび教育的介入では、子どもが話し言葉を流暢に話せるようになるという保証がないにもか

かわらず、人工内耳などの技術を使用して音声言語を習得するアプローチが採用され、手話

を使うアプローチが無視されてしまう17。そのため、ろう児は言語剥奪に直面することにな

る18。

また、親は、手話か音声言語のどちらを学ぶかについて、自分の子どもが人工内耳によっ

てどの程度の恩恵を受けるかについて、何の保証もないまま決断を迫られることになる19。

実際に人工内耳を装用し、手話を使用しない子どもたちの研究によると、言語発達の結果は

非常にばらつきがあり、一般的にろう児でない子どもたちよりも悪いことが明らかになって

おり、対照的に、人工内耳を装用した手話を話す子どもたちは、非手話話者と同様の言語発

達を適時に遂げ、非手話話者である人工内耳装用児を上回っている20。

つまり、現在、多くのろう児が言語剥奪の危機に瀕しており、これは世界的な問題として

深刻化している。ろう児が言語剥奪の危機に直面している現状は、さまざまな要因から生じ

ていることが明らかである。主に聴者の親を持つことや、医療専門家による音声言語に偏っ

た医学モデル視点での介入や情報提供が原因である。早期介入におけるろう者専門家の関与

不足、これらの問題が複合的に絡み合い、ろう児の言語発達に深刻な影響を与え、結果とし

て言語剥奪に繋がる要因となっている。その結果、ろう児は言語剥奪という深刻な問題に直

面することになる。特に、早期介入で手話が軽視され、適切な言語入力が不足していること

が問題である。改善のためには、ろう児が生まれた段階から手話にアクセスできる環境を整

えることが不可欠である。

ろう児にとっての言語は手話であり、手話を使うことで言語の発達が可能である。

Hamilton et al.は、ろうと診断された時点で手話を提供することで、ろう児は年齢相応の言

語を発達させる機会を得ることができると述べている21。Hall et al.は、ろう児が早期に手話

に触れることについて次のように述べる。“There is, however, no compelling evidence that

exposure to a sign language causes problems for deaf children. There is evidence that

exposure to a sign language can confer a host of benefits, and that excluding a sign language