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二
これは結果としては結構な事だつたので
すが、大正十三年に東京在住の三人の有力な
畫人に脱退され、一人後に殘つた最年長の鞆
音の困惑は並大抵ではなかつたでせう。結局
調成委員として殘つた鞆音が、抜けた畫家達
の補充の人選がつかなかつた分を自分一人
が責任を取つて引き受けてしまつたのです。
平生から寡黙で知られてゐた鞆音の事です
から、同僚委員が三人抜けてしまつたときの
困惑や、その代役を一人で埋め合せをつける
覚悟を決めた際の心境などを彼自身が口に
した痕跡は全く殘つてゐないのですが、とに
かく結果として現在の私共は繪畫館におけ
る大觀、玉堂の如き大家の不在と、鞆音一人
が三點を擔當してゐることの怪訝さに直面
するのであります。
制作から降りてしまつた三人の委員の擔
當豫定が如何なる題だつたのか、それを記録
してゐる資料は見當らず、推測の術
すべ
もありま
せんが、ともかくも鞆音の制作である三點の
うち最初に手がけ、且つ自身の手で生前に完
成まで至つたのは「廢藩置縣」圖であります。
小堀鞆音作「廢藩置縣」圖の 小下繪コピー(昭和六年)
(編集注:コピーは小堀桂一郎氏提供、
完成図は聖徳記念絵画館所蔵)
これは明治四年七月十四日(まだ太陰暦)、
皇居の紫宸殿大廣間で、明治天皇が在京の藩
知事五十六名に參集を命じられ、大納言岩倉
具視、參与木戸孝允を玉座右手に侍らせ、右
大臣三條
さんじよう
實美
さねとみ
をして廢藩置縣の詔勅を朗讀
せしめてゐる場面を描いたものです。
この繪の實物は聖徳記念繪畫館にお出か
けになれば、日本畫の部第二十番として鑑賞
できます。ここではその歴史的事件としての
解説はさて措くとしまして、繪畫表現として
の特徴について或る一事を述べておきませ
う。線が不鮮明で判別しにくいかもしれませ
んが、上に掲げました同図の小下繪
こしたゑ
のコピー
を御覧下さい。繪畫館の本図では、大廣間の
玉座に臨御されてゐる明治天皇のお姿の上
半身は几帳の垂幕の奥にあつて、畫を見る人
の眼には隠されてをります。
ところがこの小下繪を見ますと、畫家は几
帳を透して見る形で、御年二十一歳の若々し
い天皇のお顔を實は描いてゐるのです。
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三
描出しようと思へば苦も無くできるはず
の天皇のお顔を、垂幕の陰に隠して看者の眼
からは遠ざけてしまふ。この様な繪畫作法は、
大和繪を中心とする伝統的日本美術の世界
では畫家がよくやる事なのです。一般には繪
巻物などでお宮のご神體なる神の顔は物に
隠して畫面には敢へて描出しない作法とし
て知られてをりますが、鞆音が私淑してゐた
幕末期の畫家冷泉
れいぜい
爲恭
ためちか
にも『今昔物語』中の
一話に材を取つた「圍碁」圖で、醍醐天皇が
帳の奥に身を隠したまま、寬蓮といふ碁打ち
を相手に碁を樂しんでゐる場面を描いた圖
があります。
その様な大和繪美術の伝統を、時代を遙か
に下つた昭和六年の制作の中に再生復活せ
しめてゐる鞆音の造形感覚は一寸面白く、こ
こにご紹介するのも一興かと思はれます。
(編集部注:
小堀桂一郎氏には今後も小堀鞆音に
関する随筆や解説を随時ご執筆いただ
く予定です。
なお、小堀氏からいただいた原稿は旧
漢字と歴史的仮名遣いですので、この
『鞆の会会報』でもこれに沿って掲載さ
せていただきます。) 弁護士 高池 勝彦 乃 木 神 社 宮司 加藤 司郎 須藤 俊一 内田 一子 伊佐ホームズ株式会社 代表取締役 伊佐 裕